コンセプチュアル・アートとは何か。
2008年 04月 25日
上記作品
■ルネ・マグリット
「これはパイプではない」
一枚の紙に
パイプの絵が描いてあり
その下には
「これはパイプではない」とフランス語で書いてある。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
これは、
パイプだと思う。
が、
しかし、表現したいものがわからない。
人は絵を見てしまうと
絵だということを忘れてしまうが、
タバコの絵は吸うとなんて出来ない。
パイプは、
人が媒介してこそ
表現として伝えたいことの
意味がある。
それなのに
単体で絵として表現されているなら
二つの捉え方ができると思う。
1つは、
パイプ、それが単体のデザインとして美しいことを表現するため。
もうひとつは
本来、味や匂い、もしくは使用者の存在と伴うはずの
パイプを
紙の上で視覚表現することの限界性を訴えていると思う。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
表現したいこと、
その表現単体(=物質的側面)やそのものよりも、
表現に至るまでの手段、過程(観念的側面)に着目したアートを
コンセプチュアル・アートという。
”コンセプチュアル”という用語自体は
すべての芸術作品が、なんの観念や意図を含んでいないわけではないから
どの作品もコンセプチュアルと呼べてしまいがちであるが、
一般的な芸術論的立場でいう
“コンセプチュアル・アート”とは
「制作者」ーーーー→「作品」
↑手段
ここに着目するアートを指すのが
専門的見地だ。
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作品の傾向としては
まず、文字や記号による非物質的な表現との比較に着目できる。
コンセプチュアル・アートを大成した
コスースの代表作。
■ジョセフ・コスース
「1つおよび3つの椅子」(en:One_and_Three_Chairs)(1965年)
「1つと3つの椅子」において呈示された疑問について考えてみたい。
以下、専門家の方の引用で代用します。
同じことを考えていたので(笑)
椅子の写真、現物の椅子、椅子の定義がこの作品においては用いられている。
言うまでもなく、彼が主題化したことというのは、
私たちが椅子をいかにして椅子として認識するか、
また椅子はいかにして、何故に椅子となりうるかというような問題である。
私たちはすでに椅子というものを知っているから、
写真によってその記憶を呼び起こし、
印画紙上にプリントされたイメージを椅子であると認識できる。
そして現物の椅子とはただ組み立てられた木材の断片である。
椅子は機能とあまりに密接な関係にあるので、
あるいは機能によってオブジェが椅子へと変更されるので、
それがただオブジェとして提出されていては私たちに供与されるのは記憶と一致しない、意味のない、形だけの椅子である(それでは椅子にはならないのだが)。
また椅子の定義が引き起こすものというのは、
私たちは椅子の定義など読むまでもなく椅子が何なのかは知っているのだが、
観念的に椅子を存在させることであり、
このような状態も私たちにとってなじみがあるものではない。
オブジェ化された現物と純粋観念としての定義にはさまれて、
当初は何気なく眺めることの出来た写真は、
まさしく写真そのものである(椅子ではなく、
椅子のイメージでしかない)と私たちに強く感じさせるものとなった。
事物が存在し、私たちはそれを何気なく知覚しているが、
その存在形式に少しの作為を加えることで知覚の解体が起きる。
この一連の知覚への揺さぶりを作品化しようとするところに、
コスースのコンセプチュアル・アーティストとしての真骨頂があるように思う。
そしてこの作用を引き起こすためには筆触やカンヴァスは要請されない。
表現が主体的に媒体を決定した好例であろう。
それを哲学書の中ではなくなぜ美術館の中で行う必要があるのか、
という問いも立てられるが、
コスースは美術館の持つ慣習的な機能、
展示されている物を普段ものを見る以上に
よく見るという場所が要請する機能を生かそうとしたのではないか。
活字も、イメージも社会の中にあふれかえっているが、
そのほとんどは私たちの前を通過していくだけだ。
事物を美術館という文脈に配置するだけで、それの持つ意味は変わってくる。
ものが存在し、それを認識するという当たり前のことを
美術館というフレームを用いて切り取った瞬間
それはただ流れていくものから相貌を変えて意識に上るだろう
(哲学史においてももっとも普遍的な主題の一つである)。
美術も哲学も存在の諸様態に対して照明を当てようとするものである以上、
こうした問いを共有することがあってよいし、
美術というフィールド、
美術館という物理的な場でしか示すことが出来ないようなことがあったのだとも考えうるだろう。
引用:■思考の肖像−ジョゼフ・コスースについて−
(基礎テクスト2002、2006加筆修正)
http://www.kazufumi.info/%83R%83X%81%5B%83X.html
3つの椅子を提示していると同時に、
プラトンがいうような
視覚化できないイデアとしての1つの椅子を表現しようとこころみた。
文字で書いてあること
写真で示すこと
紙面上の本物(?)を3つ並べて比較。
椅子は問題じゃない。
椅子を表現しようとするアーティストの観念の方が重要であり、
それは椅子を知覚しようとする鑑賞者にも
はっきり伝わってくるはず。
1969年に『哲学以後の芸術』を発表した彼の言葉。
「二十世紀は、「哲学の終焉、そして芸術の始まり」と
呼んでも良いような時代をもたらした。」
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上記作品
■ジョセフ・コスース
「アイディアとしてのアイディアとしての芸術」(1967年)
" art”を辞書でひくとあらわれる
文字の羅列。
これは(言葉としての)芸術であっても
(言葉としての)芸術ではある。
もしかしたら、「辞書をひく」という行為すら
表現の前に置かれて芸術を生み出す、衝動になるかもしれないし、
もしかしたら、
言葉のみで表現する芸術の限界性を表現しているのかもしれない。
私としては、芸術として表現するためには
理論家であればあるほど言語を介在して表現を試みようとするはずだから、
それならいっそのこと、むき出し原型の言語を美術として
表現の表層に出すことで
その行為の価値を証明しているように思える。
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芸術を生み出す為の、
動機づけ、観念、概念そういった
ほわほわっとしたもの
それ以上にその過程すら
もはやすでに、芸術なのではないか?
非物質的な表現としての
文字だけでなく
表現を生み出す行為「パフォーマンス」や
「アースワーク」などのの記録写真などを
コンセプチュアル・アートに含めることもある。
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「アーティストは形状、色、素材ではなく、意味を扱う作業をするのだ」
この言葉もコスースの言葉(笑)
ちなみに彼はウィトゲンシュタインのファンでもあったそうな。
納得(笑)
by unknownpink
| 2008-04-25 01:12
| known*わかった